師匠が欲しかった私が気が付いた、学ぶ際の枷のあれこれ

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『育て上げることができない人からは、学びたくない』
 
私は、超一流のスポーツ選手を育てるコーチのように、天井を作らずに、どんどん伸ばしてくれる師匠が欲しかった。
  
だが、探す努力が足りなかったからか、私は理想的な師匠を見つけられなかった。
 
当時、どうやってそれと判断していたのか、今となっては若干不明な部分もあるけれど、ずっとそう思っていた。
 
実は、今でもそう思っている。
 
  
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よく言われることだが、先生は、どうしてその役割ができるか、と、考えたことがあるだろうか。
 
小学校でも中学校でも高校でも、自動車教習所の先生でもいい。
 
先生は、当然、生徒よりも知識や技術がある。
だから、その差を伝えることで先生の役割ができる。
水が高いところから低いところに落ちるように、落差があるからこそ、その役割ができる。
 
ただそこに、とても優秀な生徒がきたらどうなるだろうか?
最初は差があるだろうが、生徒がどんどん習得していく。
そして、差がほとんどなくなったら、先生と生徒の関係は一体どうなるのだろうか。
 
 
先生は先生という職業のことが多い。
先生という役割ができなくなると、食べてはいけない。
 
自分が先生の立場であれば、理解がしやすくなると思うので、ちょっと想像してほしい。
 
自分と同じか、もっとできる生徒を抱えている。
そんなときの気持ちを、ちょっと想像してほしい。
 
社会人であれば、自分の部下のが、自分よりもずっと優秀、というような状態に置き換えて想像してほしい。
 
そこに、先生として立つ瀬があるのだろうか。
そこに、上司として立つ瀬があるのだろうか。
 
生徒や部下がとても優れていると気付くに従い、また能力が高ければ高いほど、心のどこかで、ある思いが強くなるだろう。
  
先生の役割をしっかりしなければ、立場がなくなる・・・・・・
上司の役割をしっかりしなければ、立場がなくなる・・・・・・
 
そう思うことで、生徒や部下を無意識に、自分の管理下に置こうとしてしまうだろう。

軽く管理されるだけならまだいい。
そう、先生が自身の知識を高める「間」を作るためだけに使われるなら。
 
でも、押さえつけが始まったらどうなるだろう。
先生が自分の知識を高めることなく、生徒を、部下を押さえつけるようになったら・・・・・・
 
生徒なら学力を向上させるアドバイスをして、どんどん伸ばしてあげることが大切なのに。
部下なら、部下が活躍する場を整えてあげることが大切なのに。
 
先生や上司が自己保身のために、役職や役割を守ることを優先すると、そうした押さえつけや、締め付けが無意識に始まる。

そう、無意識にだ。
   
 
一流のスポーツ選手は、コーチを雇うにあたり、自分で選ぶことができる。
雇われたコーチも、選手が学び、上達した場合、そこにしがみつくことなく、他のコーチのがいい時期に来たと判断した場合、他のコーチの紹介もするだろう。
そこにあるのは、何かを学びたいという選手の意識を大切にして、その能力を開花させていくという、とてもシンプルなこと。
今あるコーチという役職を守ることにしがみつかず、自らができる最善を提供すること。
 
選手が一流から超一流になれば、コーチも、あとからゆっくりと名声を得るだろう。
  
  
私はこうした動きを知っていたので、そうではない師匠や先生を意識して避けようとしていた。
  
でも、自分の情報網では、理想的な師匠を上手く見つけられなかった。
 
 
どこかには居る、そう信じて探していた。
  
しかし探す日々が重なり、時間が減っていくのに次第に疲れてしまい、探すことをいつしか諦めた。
  
 
そして、自分の感覚を徹底的に頼りにした。
 
どんな道も、過去を大きく振り返れば、創始者がいることに気がついたから。
 
 
無謀かもしれないけれど、一番遠い道を選んだ。

誰かから学ぶことを捨てて、自分を頼りにしたことで、決めたことが一つある。
 
そう、とにかく、感覚を育てることにしたのだ。
 
 
<<感覚>>
   
英語を喋りたくなったら、多くの日本人が苦手とされる RとLの違いを聴き分けられないと、自分の発音があっているかがわからない。
発音が間違っていれば、補正の練習もできる。 
補正の練習を重ねることで、正しい発音にいずれ近づくだろう。

受信感度が上がることで、その練習は着実な結果を導き出す。
感度が悪いまま、どんなに練習を重ねても、きっとRであっているとか、なんとなくLっぽい風で終わってしまうだろう。
 

受信感度は大切。
 
そう捉えた私は、感覚を鋭敏にするトレーニングを徹底的に重視した。
それしか、していないと言っても過言ではないくらいに、大切にした。
 
そうして、感覚が鋭敏になることで、様々なことが見えてきた。
 
感度が良いと、違いがよくわかるようになり、エネルギーを出すときに違いをつくることで、どう変わるかが明確に捉えられるようになった。
 
わかるに従い、料理ならレシピとも言える手法が蓄積されてきた。

また、レシピを使い、何度も再現することで、再現性を高めていった。
 

<<再現性>>

再現性というのは、簡単にいうと、どんな時でも一定以上のレベルで実施ができるということだ。
 
 
例えば、CDやダウンロードした音源を持っている、ピアノのソロのコンサートを予約をし、楽しみにして出かけるときを考えてみよう。
そこには想像している音が頭の中にあるはずだ。
 
その音以下の音が奏でられることは、観客としては想像はしていないだろう。 
どんなに最低であってもCDやダウンロードした音源レベルだと思っているだろう。

もし、楽しみにしていったのに、CDやダウンロードした音源以下の音だったり、毎回、仕上がりが異なる場合、また行きたくなるだろうか?
 
そうした差すら楽しめるような、マニア的な楽しみをもった人や、関係者以外は、おそらく時間もお金も勿体無いと思うだろう。

安定した心地好さを楽しめる、もっといい人を探した方がいいな。
そう、素直に思うことだろう。

プロがプロとして生きて行くための最低限の線。 
それが再現性。
 

再現性を確保するためにも感度が役に立つ。

どういう気持ちのときに、体がどうなっているか。
知れば知るほど、役に立つ情報が手に入る。

知識の蓄積と練習で、自分の心が沈んでいようが、喜んでいようが、悲しんでいようが常に一定のレベルで再現ができるようになる。

こうしたことも、感度を高めていくうちに、自然と身についてきた。
 
 
<<全部一人で?>>
 
感度と方向性をしっかり手にすること。
それを一人で行うのは、なかなか大変。
 
最初のきっかけを手にするのと、どちらの方に向かえばいいのかが、感度が低いときには、とても分かりにくい。
  
 
英語の RとLの発音は、録音して、自分の発音と、お手本を聞き比べれば、手間はかなりかかるが違いはわかるだろう。
しかし、エネルギーワークは、なかなかそうはならない。
 
だから、もし、エネルギーワークをしっかりと手にしたいなら、きっかけと方向性を知るのに、プロの手を使ってもいいと思う。
  
時間を大切にすることにも繋がると思う。
  
 
<<人生は有限>>

元気でいると、ついつい忘れてしまいがちだが、命の限界はいずれやって来る。
  
時間を、どこまでどのように使うかは、個人個人の裁量にもよるだろうが、可能ならば、本当に必要な遠回り以外は、あまりしたくないと考えるのが普通だろう。
 
目標や目的を含め、基本の方針が自分とよほど離れていない限り、それを提供するプロの手を使うのは、正直ありだと思う。
 
美味しい食事をただ楽しくしたいのに、料理を独学で学び、食べる空間を作り、食器やテーブルウエアを揃えるところまで全て自分で用意をしていたら、一体いつになったら美味しい料理を食べることができるのだろう。
 
自分がとてつもない遠回りをしていたからこそ、尚更そう思う。

エネルギーワークを独学で理解するには、自転車のチェーンロックで4桁の数字を合わせる鍵が今でもあるが、あの数字を0000から9999まで、最初から最後まで一つ一つ合わせていくようなことが必要だからだ。
実際はもう少し複雑だけれども、全てを一巡してようやっと、たった一つの本当の正解を知ることができる。

また、何かを失敗しても、誰かに助けてもらうことができない。
失敗して、自分の具合が悪くなっても、自力でどうにかする道を、苦しみながら探す必要もある。
 
 
人間は、人間だからこそ、同じようなところで躓くことがある。
 
 
もし、あなたが、自分が躓いた同じ場所で、同じように躓いている人をみたら、一体どうするのだろう。
 
そこを超えるのは大変なんだよねと、後ろを振り返りつつ、見ているだけにするだろうか。
それも勉強だよねと、ただ思うだけだろうか。
それとも、優しく寄り添い、適切な助言をするのだろうか。
それとも、ここは注意したほうがいいよと、簡単に伝えるのだろうか。
 
学びは、辛い思いをしたステップがあると、初めて本当のことを理解できるようになり、しっかり身につくことが多い。 
 
ただ、あまりにも簡単な部分で、先に進めていないならば、一概にそうとも言い切れない。
人間には、こういう特性があると伝えたうえで、そこを通過し、本当の意味で苦労するべきところに、知力や体力を目一杯使ってもらう方が、全体としていいように私は思う。
 
そう、最終的な結果をより良いものにするためにだ。
 

最終的な結果とは、学びを受ける人のものだ。

教える側で一番大切なのは、その学びを阻害するのではなく、学ぶ人の特性を理解して、あとは自分で対処できるようにするための行動を行うこと。

自転車に乗る練習で、補助輪を外し、最初の頃だけ一緒に走りながら、いつでも手が離せるような感じで、後ろから軽く手を添えるような形でサポートを行うのだ。
 
自然な形で、前に進めたら、手を離しても、すぐに走れるようになる。
走れたら、学び手は自力で前に進めるようになる。
 
自分で漕いで、自分で進行方向を決め、自分で曲がり、自分で止まる。
すべてを自分で判断していくことで、本当に必要な力が得やすくなる。 
 
資質や能力は人それぞれだけれども、どこまで伸びるかは本人の才能の有無と努力次第。

努力する時間を捻出するためにも、今現在、使える何かがあるならば、使うのもいいと私は思う。

 
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